俵万智の炎上から見る「死ね」という言葉の重みについて

 

俵万智流行語大賞の審査員ということもあり今回このような釈明を受けることになった。

ここでは「日本死ね」の中身については言及しない、今回はそこが論点ではない。

問題は「死ね」という言葉の重みについてである。

 

今回問題のひとつに

「日本語を仕事として扱う人間が『死ね』という言葉を流行語と判断して選んでいいものなのかどうか」

というのがある。

もちろん、いい言葉ではないし、彼女自身も「日本という国も日本語も、心から愛しています」と言っているので、僕は引用RTで「はい、ダウト」とは言ったものの、真意であるというのは間違いないと言っていい。

 

この件について、大学院まで日本語について研究していた姉(現在は日本語教師)に話を聞いた。

するとこのように返ってきた。

「よろしくはないとは思うけど、まず『死ね』という言葉の重みが無くなってきて、軽い意味でも使われるような時代にはなってしまったかもしれない。いくらダメとはいいつつも一般的に使われるようになってしまったから時代の流れを感じる」

「死ね」という言葉が昔から変わって随分と軽い表現で使われるようになってきた現状を語ってくれた。

そして付け加えてこう話した。

「叩いている人たちも、普段の言葉を録音したら、「死ね」ってかなり使ってると思う」

そう、ただ単に俵万智という人間が「歌人」ということだけで、日本語に敏感でなければならない人間がなぜ死ねと使った!許せない!という格好の餌食になってしまったわけだ。

普段僕も含め、「死ね」という言葉はどこかしらで発していてもおかしくない。

 

ここで僕はこんな妄想をした。

俵万智はここまでの炎上含めてこのツイートをしたんじゃないかと。

外部からのリプライなんぞ、無視しておけばよかったものの、なぜ釈明するにまで至ったのか。

昨今の炎上を考えれば、日本語を扱っている俵万智ですら、この結果になることは分かっていたはずだ。

しかし彼女はあえて釈明をした。

もしかしたら、もしかしたらであるが、彼女は身を挺して「死ね」という言葉がいかに重いか、歌人である自分が使うまでに日本は堕落してしまったということを表現したかったのではないか。

軽くなってしまった「死ね」という言葉に対して、公の自分が発することで、炎上でもいい、問題提起になれば、と思ったのかもしれない。

 

そこまで考えて今回のツイートをしたとしたら、すごいことではあるが、これは僕のあくまでも妄想なのであしからず。

 

自分自身も省みて、日本語というものを改めて考えさせられることであった。

 

追伸

今回の件で姉が「死ねって言葉の変遷を研究するのも面白そうかも」とぼそっとつぶやいていた。